
中近東担当の机
異動から数日が経って、自分の机の上に、一枚の大きな紙が広げられるようになった。
縦軸に国の名前、横軸に車種の名前。あるいは、その逆——どちらにとってもよかったが、自分は縦に国、横に車種を並べる癖をつけた。サウジアラビア、クウェート、UAE、バーレーン、カタール、オマーン、イラン、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、エジプト——縦に並ぶ国の数だけで、十をゆうに超えていた。横の車種は、乗用車から商用車、フォークリフトの各仕様まで、これも十数種類。マトリックスのマスの数は、それだけで百数十に及んだ。
そのマスを、毎月、数字で埋めていくのが、中近東担当の仕事だった。
バーレーンからの注文、サウジの大口注文、クウェートの定期発注、湾岸の小国からの特殊仕様の注文——それらが、文字や数字の塊となって、机の上に届く。それを国別・車種別に集計し、マトリックスのマスに数字を書き込んでいく。一マス埋めるのに、一つの注文書を見て、判断して、書き写す。それを百数十マス、毎月、繰り返す。
道具は、カシオの電卓だった。
村山時代に支給された、あの古いカシオである。フォークリフトの仕様の組み合わせを計算してきた電卓が、本社の机の上では、世界の国々の注文を集計する仕事に使われることになった。指の動きは、村山と同じ。キーの押し心地も、同じ。違うのは、画面の数字が表す意味だけだった。村山では、それは一台のフォークリフトの工数だった。本社では、それが百台のサウジ向け乗用車の合計だった。
当時、PCという概念は、まだなかった。
フロアの隅に、日立のオフコンが鎮座していた。CCRのオフコンより少し小ぶりで、しかし機械の形は、似たような構えである。本社のオフコンも、同じように低い唸り音を立てながら、毎日、数字を呑み込み、数字を吐き出していた。表計算ソフトと呼べるものは、まだ生まれて間もない頃である。ビジカルクという名前の、最初期の表計算ソフトが、あの頃、オフコンの上で動いていたと記憶している。
ただ、ビジカルクは、まだ電卓には勝てなかった。
パラメーターの設定が大袈裟で、簡単な集計を一つ取るためにも、いくつもの手順を踏まなければならない。そのあいだに、電卓ならば、すでに答えが出ている。一マス、また一マスと、地道に数字を積み上げていく仕事には、結局、電卓のほうが早かった。指の動きで足し算を重ねていくほうが、機械を立ち上げて、表を組んで、計算式を入れて——という回り道よりも、確実だった。
あの頃の道具の力関係は、そういうものだった。
機械が人間の手を完全に追い越すには、まだ時間が必要だった。指の速さと、頭の速さと、紙の上の見渡しのよさ——それらを合わせた人間の作業のほうが、まだ機械よりも速かった。電卓は、その人間の作業を、ぎりぎりで支える道具だった。村山時代に支給されたあのカシオが、本社の机の上で再び主役を張ったのは、こういう時代背景のためでもある。
マトリックスのマスを、毎日、電卓の音と一緒に埋めていった。
注文の数字は、ただ機械的に集計すれば済むものではなかった。
現地の販売店から上がってくる注文には、それぞれの国の事情が貼り付いていた。サウジの注文は、現地の建設ブームと連動して、フォークリフトの大口が定期的に入る。湾岸の小国からは、王族の趣味に応じた特殊仕様の乗用車の注文が、ぽつぽつと入る。イランやイラクからは、軍と港湾向けの実用車種の注文が、まとまった単位で入る。バーレーンは、金融街の整備と連動して、商用車の動きが活発だった。
同じ「中近東向け」という言葉でくくられても、中身は、まったく違っていた。
机の上のマトリックスのマスを埋めながら、そのマスの先に広がる現地の風景を、自分は少しずつ想像できるようになっていった。フォークリフトの担当だった頃に、使われる現場を想像できるようになった——あの感覚と、似たことが、本社の机の上でも起こっていた。違うのは、想像する対象が、首都圏の倉庫から、サウジの建設現場や、湾岸の港湾施設に変わっていた、ということだけだった。
マスを一つ埋めるたびに、その国の風景が、少しだけ近くなった。
サウジの夏の砂漠の上で、五十度近い熱に耐えながら動くフォークリフト。湾岸の真新しい邸宅の車寄せに止まる、特殊仕様の乗用車。中東の港の岸壁で、クレーンに吊り上げられて陸に降ろされる商用車。机の上の数字の一つ一つに、そういう現地の朝や夕方が、小さく結びついていた。村山時代に身につけた「現場を想像する」感覚が、本社の机の上で、地球規模に拡張されていく感じがあった。
東出さんは、隣の島の生産手配班にいた。
担当は、北米だった。当時の日産自動車にとって、北米市場は最大の輸出先である。E03の生産手配班の六担当のうちでも、扱う台数が群を抜いて大きい席を、東出さんは一人で背負っていた。慶応大学の経済学部の出と聞いていた。文字通りの本社のエリート社員のはずだったが、東出さんの机の周辺に、エリートらしい鋭さは見当たらなかった。
恰幅のよい人だった。
背の高さは普通だったが、横幅にはゆとりがあった。スーツの肩のあたりに、たっぷりとした余裕がある。にもかかわらず、顔つきは、不思議と尖ったところがなかった。布袋様のような、と言ったら少し失礼かもしれないが、それでも、ほっこりとした、丸い穏やかさが、東出さんの顔の輪郭にはあった。机に向かって電卓を叩いているときも、書類に判を捺しているときも、その表情は変わらなかった。
口調も、また優しかった。
フロアの中で、東出さんが声を荒げているのを聞いたことが、一度もなかったように思う。船積み班の女性陣のところに、北米向けの出荷手配の相談に行くときも、東出さんはニコニコと話しかけていた。女性陣のほうも、東出さんに対しては、屈託なく応じていた。北米担当の重い数字を扱う机の主が、フロアの中で、最も柔らかい雰囲気をまとっている——あれは、若い自分にとって、ちょっとした驚きだった。
仕事ができるかどうかと、態度が柔らかいかどうかは、別のことらしい。
むしろ、本当に仕事のできる人ほど、人当たりが優しい——という法則を、自分は東出さんを通して、初めて骨で理解した。北米向けの台数を一手に動かしている人が、フロアでいちばんニコニコしている。これは、見ている若手にとって、生きた教科書だった。
こちらの仕事が立て込んでいるときには、東出さんは、必ず、何気なく声をかけてくれた。
「忙しそうだな」「手伝うことはあるか」——その短い一言で、若い自分は、何度も助けられた。押し付けがましいところも、見下したところも、変によそよそしいところも、なかった。同じフロアで働く同僚として、当たり前の声をかけてくれる——その当たり前が、若い新参者にとっては、何よりの支えだった。電話で穏やかだった人は、机を並べてみても、やはり穏やかだった。そういう人は、世の中には、存外、少ない。
仕事のやり取りも、自然と多くなった。
中近東向けの注文の中に、北米向けの注文と関わる調整事項が出てくることがあった。台数の取り合いが起こったり、共通部品の手当ての話で、地域担当同士の擦り合わせが必要になったりする。そういうとき、東出さんは、こちらの事情を一通り聞いた上で、「じゃあ、この線で動こう」と、すぐに決めてくれた。決めてくれる人がいるというのは、若い側にとっては、本当にありがたい。決められない人と組むと、一つの調整を通すのに、半日かかったりする。
あの本社の最初の数か月、東出さんがいてくれたことの意味は、大きかった。
東出さんとは、その後、長い付き合いになった。会社を離れてから、何十年も経った今でも、まだ連絡を取り合っている。あの本社のフロアで隣の島に座っていた頃の関係が、半世紀近い時間をまたいで、まだ続いている——そういう同僚に、若い日に出会えた幸運を、今になってしみじみ思う。布袋様のようなほっこりした顔は、たぶん、今も変わっていない。
仕事のやり取りの中で、現地とのコレポンも始まっていた。
コレポンとは、コレスポンデンス——書面でのやり取りのことである。当時の海外との通信は、ほとんどが英文の手紙か、テレックスだった。電話もないわけではなかったが、国際電話は高くて、長い議論には向かない。込み入った話は、文字に落として、紙の上で交わすのが原則だった。
英語の文面を、いちから組む仕事だった。
学校で習った英語と、コレポンで使う英語とは、かなり違っていた。商売の英語には、独特の言い回しがある。「ご注文の件、確かに承りました」「現状の納期は次のとおりです」「ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます」——これらを、英語の商務文の様式にそのまま落とし込んでいく。最初は、辞書と既往の文例集とを行き来しながら、一通の手紙を書くのに半日かかった。それでも、書き続けていれば、少しずつ慣れてくる。コレポンの英語は、頭で覚えるものではなく、指で覚えるものだった。
テレックスは、もっと無愛想な道具だった。
大文字のアルファベットだけで、できるだけ短く、用件だけを伝える。礼儀の言葉も、装飾の言葉も、削り落とす。電報のような短さの中に、必要な情報をすべて詰め込む。それを毎日、世界の港の販売店に向かって、フロアの隅のテレックス機から打ち出していく。打鍵音が、フロアの音の層の中に、もう一つ加わっていた。
電話のベル、女性たちの声、紙のすれる音、電卓のキー、テレックスの打鍵——本社の朝の音の層は、こうして、少しずつ自分の耳に馴染んでいった。
マトリックスを埋め終えると、月次の生産計画立案の会議が待っていた。
本社の生産計画課が、その会議の場である。国内営業部の課長、生産計画課の各工場担当、E03の国担当、そしてそれを束ねる係長——五人、六人と、会議室に集まる。各自が、自分のマトリックスの集計表を持ち寄り、机の上に広げる。輸出と国内とを合わせて、来月の工場の生産計画が、その会議室の机の上で組まれていく。
計画は、三か月単位で出された。
当月、次月、次々月——三か月分を、毎月、組み直す。当月の数字は確定。次月、次々月は枠取りの数字。確定した数字に従って、工場のラインが動き、ユニット部隊(エンジンやギヤなどの基幹部品の製造部隊)が、その先の生産計画を立てる。次月の枠取りの数字は、ユニット部隊にとっては、半分くらいの確度の予告である。次々月の枠取りは、もっと先の予告。それでも、ユニット部隊は、その予告を見ながら、自分たちの製造計画を組み立てていく。
当月に大幅な変更が入ると、現場は大騒ぎになった。
輸出側の急なオーダー減で、工場の総台数が落ちる。落ちた分を、国内側で吸収できればよいが、できない場合もある。台数が余れば、生産調整で逃げる。逃げ切れない部分は、たとえば北米や欧州のように、市場に余裕のある地域で見込み発注を立てて、全体の生産量を確保する。それでも調整しきれない場合は、最終的に組合との話し合いの場に、人員計画の変更が持ち込まれることになる。
マトリックスのマス一つ一つの数字の重みを、自分は、この会議の中で、骨で覚えていった。
机の上で軽く動かした一マスが、工場の班長たちの一日の段取りを変える。ユニット部隊のエンジン製造の歯車を、一段、回し直させる。場合によっては、組合の会議室で、人員の配置の議論を生む。マスを埋めるという仕事は、見た目には地味な事務作業だが、その先には、何百人、何千人の現場の動きがつながっていた。村山時代に、現場を想像する感覚は身についていた。本社では、その感覚の射程が、いっそう長くなった。
会議で、一番むずかしいのは、現地の売れ方の予測だった。
現地で売れているときには、現地の在庫がない。だから、新しい注文がこちらに上がってくる。注文を受けて、こちらが生産を増やす。増えた車が船に積まれて、現地に着くまでに、数か月かかる。問題は、その数か月後に、現地の売れ方がどうなっているか、ということである。
同じ勢いで売れ続けていれば、増産は正解になる。
途中で売れ行きが落ちれば、増産は過剰になる。船で運ばれた車が、現地の岸壁に着いた瞬間、すでに余剰在庫である——という事態すら起こりうる。逆に、現地の売れ方が想定を上回ったときには、増産が足りず、船便も追いつかず、現地の販売店が「車がない」と悲鳴を上げることになる。生産・販売・在庫の動きを、地球規模で読みながら、机の上で台数の数字を動かす——これが、生産手配の最も難しい部分だった。
工場時代に、生産・販売・在庫の関係は、いやというほど叩き込まれていた。
そのおかげで、自分は、各国担当に対して、自然と一つの問いを発するようになっていた。「現地の在庫状況を見て、オーダーされていますか」——会議の場で、あるいは廊下のすれ違いざまに、この問いを発する。問いの相手は、こちらより年上の、現地のことに詳しい先輩であることが多かった。年下の若い担当が、こういう問いを発するのは、本来、生意気な行為かもしれない。それでも、工場で叩き込まれた感覚が、自分の口を、自然とそのほうに動かしていた。
現地の売れ方を読むのは、最終的には営業の判断である。
こちらは生産手配の側にすぎない。販売の現場を直接知っているわけでもない。それでも、生産・販売・在庫のバランスが大きく崩れそうな兆しが、机の上のマトリックスから読めることがあった。そのときに、黙ってマスを埋め続けるか、それとも一言、声をかけるか——その判断を、若い自分は、毎月の会議のたびに、自分の中で問い直していた。
マトリックスの紙、カシオの電卓、コレポンの英文、テレックスの打鍵、そして三か月の計画。
これらが、本社の机の上の、自分の毎日の道具だった。村山の机では、フォークリフトの仕様書とラインの計画表とCCRのパネルが、同じような毎日の道具だった。場所が変わり、扱う対象のスケールが、首都圏から地球の中近東まで広がった。それでも、机の上で「数字を動かす」という仕事の本質は、変わらなかった。動く数字の意味の重みだけが、一段、深くなった。
あのマトリックスの紙を、今、もう一度見たい気がする。
手元に残っているはずもない。机の上で毎月使い切られて、月末にはたぶん廃棄に回されていた紙である。それでも、縦のサウジアラビアの行と、横の乗用車の列とが交わる一つのマスに、自分が電卓で弾き出した数字を書き込んだあの瞬間の指の感覚は、今も指の中に残っている。一マスの数字は、たとえば「八十台」だった。たぶん、他のマスは、もっと大きかったり、もっと小さかったりしただろう。しかし、八十、という数字を書き込んだ自分の指の動きが、不思議と、今も指の記憶として消えていない。
人の指は、数字を覚えているらしい。
頭は忘れる。書類は廃棄される。会議室は取り壊される。それでも、毎日、繰り返して書いた数字の感触だけは、半世紀経っても、指の腹のあたりに、薄く残っている。あの本社の机の上で、自分の指は、世界の国々の名前と、そこに渡る車の台数とを、一つずつ覚えていったのだろう。
世界の時代は、こうして、机の一枚の紙の上から始まっていた。
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