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学校に行けば机がある

なぜ、これほどまでに現実を喪失して、自分がリサイクルをしていないのに、リサイクル派といっても恥ずかしくないのでしょうか? 少し脱線しますが、現代の病の原因を一つ解析してみます。
小学校の入学式に行くと、学校はすでに建設されています。そして授業が始まり、教室に行ってみると机は整然と並んでいて、そこに座ると先生が来られて教えてくれます。昼休みになると給食でお腹を膨らますことができ、午後の体操の時間には校庭に体操の道具がそろえられています。
高等学校に進学しても同じでした。学校は立派でしたし、昨日汚した机もきれいになっています。近くのパン屋さんに早飯を食べに走るとパンが店頭に並んでいます。家に帰ってテレビをつけると面白い番組が提供され、夕方になるとお母さんが夕食を用意してくれます。
昔も学校は建っていました。給食もありました。パンも店頭に並んでいたと思います。その点では現在と昔とは変化していません。しかし、大きな点が違います。昔は多くのものを自分でやりました。たとえば父親は毎日、鍬(くわ)をふるっていましたし、ときには父親と大きな切り株を引き抜くのに挑戦したこともありました。筋肉の痛み、父親の激しい息づかい、そして引き抜く瞬間の達成感、素晴らしいものでした。もちろん、自分の家で食べるものは家族で作りましたし、風呂は薪を焚いて沸かしました。薪に火をつけるにはどうしたらよいか、覚えました。
自分が生きる上でしなければならないことは小さな時代から目で見たり、手伝わされたりしたものです。そして成人し、結婚して家庭を持つようになれば、自分の生活を本当の意味で自分で守ったのです。その当時のリサイクルは自分でするリサイクルだったのです。刃の欠けて根本のゆるんだ鍬を自分で研ぎ、根本を締め直して使いました。母親は古着を解いて作り直し、自分の着物を作ってくれました。そんな中で環境を守り、リサイクルをしていたのです。背後霊も自然に見ることができたのです。
それに対して、現代は自分の生活を自分一人ですることはできません。分業が進んで貨幣経済の中にどっぷりと浸かっています。自分のために学校を建てたのも、机を整然と並べたのも、教える先生も、給食の人も、体操の先生も、汚したトイレや机を拭く人も、みんな自分のために働くのが当然の人たちのように見えるのです。そして、自分の生活を支えてくれる人たちのことを一生涯考えなくても人生を送れるのが現代です。
現代においてリサイクルが数々の矛盾を孕(はら)んでいる原因の一つに、極端な分業と現実喪失、そしてそれに基づく「他人は何でも自分のために働いてくれる。そしてそれはタダで、環境にも何にも影響がない」という考えが底にあると感じられてしかたありません。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より

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